ヘタレ投資家ヘタレイヤンの読書録

個人投資家目線の読書録

日本企業はなぜ「強み」を捨てるのか 増補改訂版『日本”式”経営の逆襲』

岩尾俊兵 光文社 2023.10.30
読書日:2024.3.4

日本発の経営戦略がアメリカ経由で逆輸入され、もともと持っていた経営戦略を日本企業が捨てている現状を憂え、日本自身が世界に広めなければいけないと主張する本。

日本で流行っているアメリカ由来の経営戦略には、もともと日本発のものがたくさんあるんだそうだ。なのに、日本人自身がそれに気が付かずにありがたがっている状況だという。

たとえば次のようなものだ。

(1)両利きの経営:既存のビジネスでしっかり稼ぎながら、新分野の探索を行う経営。
提唱者のオイラリー教授とタッシュマン教授は、両利きの経営の典型例は「トヨタ生産方式」だと述べている。(ただし有名になってからはそんなことはまったく言っていない)。

(2)オープン・イノベーション:自社の技術を提供するかわりに、自社以外の技術の提供を受け、イノベーションを加速すること。
提唱者のチェスブロウ教授は、日本は早くからオープン・イノベーションを展開していたと紹介。日本企業が下請けを巻き込んで、企業の垣根を越えて協調して技術開発を行うことを指している。

(3)ユーザー・イノベーション/フリー・イノベーションイノベーションにユーザーや無関係な一般人を巻き込んで、その発想や知識を取り入れて開発を行うこと。
提唱者のヒッペル教授は、生産設備のユーザーである日本企業の従業員が改善の知恵を出している、QCサークル活動を参照している。

(4)リーン・スタートアップ/リーン思考:不完全でも取り得ずプロトタイプを作ってみてすぐに改善する、というプロセスを高速に回転させること。
著書内で源流は「トヨタ生産方式」だと何度も言及。

というわけで、オリジナルは日本なのに、なぜかアメリカがそれを商品化してコンサルタントとして大儲け(売上数兆円)をしている状況で、岩尾さんとしてはじくじたるものがあるようだ。しかも買っているのは、日本企業なのである。

なぜそんな事が起きるのだろうか。

アメリカは抽象化、一般化、コンセプト化に優れている。一方、日本は特定の個人や組織の文脈に依存しており、そのままでは外に持ち出せないものになっているという。さらには、日本企業は自分たちの経営技術を信じる力で負けているのだという。

この結果、「カイゼン」という明らかに日本発のものまでが、アメリカで商品化されて、世界を席巻しつつあるのだそうだ。

こんなことではいけないと、岩尾さんは、日本の経営技術をいかに抽象化するか、ということを検討している。抽象化というのは、簡単に言えば、科学的な装いを施すことである。なので、どのようなカイゼンのタイプだとどのような効果があるかというのをシミュレーションを用いて抽象化する研究をして、発表したりしている。

なるほどねえ。

まあ、言いたいことはよく分かるけど、それならアメリカのコンサルタント会社を買収したり出資したりすればいいのではないかしら。お互いの得意分野で協力すればいいだけのことで、日本だけで全部やろうとしなくてもいいのでは?

★★★★☆

同志少女よ、敵を撃て

逢坂冬馬 早川書房 2021.11.25
読書日:2024.2.21

(ネタバレあり。注意)

第2次世界大戦、モスクワ近くのイワノフスカヤ村にドイツ軍が現れ、村人が虐殺される。一人、生き残った少女セラフィマは、もと女性狙撃兵イリーナに導かれ、狙撃兵として訓練を積み、ドイツ軍への復讐を誓うのだが……。

2021年アガサ・クリスティ賞受賞作であり、2022年本屋大賞受賞作である。あんまり小説は読まないわしではあるが、まあ、読んでみようかな、という気になり、遅ればせながら手にとってみた次第。

ところで、第2次世界大戦の独ソ戦に参戦した女性兵士の話となると、どうしてもスヴェトラーナ・アレクシエーヴィチが元女性兵士にインタビューした「戦争は女の顔をしていない」を思い浮かべてしまう。わしは読んでいないけど、NHK−Eテレの「100分で名著」で取り上げられたから概要は知っている。そこでは、戦争から帰った元女性兵士たちが、村人から差別を受けるという理不尽な様子も描かれている。(戦場で男とやりまくったんだろう、などと言われる)。そこまで書かれるのだろうか、というのが読む前からの疑問だった。

さて、結論を言うと、お話の冒頭、故郷の村は主人公以外、全員虐殺されるわけで、故郷に帰っても彼女を非難する村人はいないのである(笑)。なーるほど、これなら戦後の面倒くさい状況は説明しなくてもいいわけだ。(どうせつまんない話になるし)。というわけで、物語の最初の段階で問題はクリアだ。

さらにネタバレをすると、主人公のセラフィマと女性上官イリーナは最後には恋人同士になってしまうので、男とやりまくったんだろう、なんて非難はされるはずがない。さらにスヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ本人が小説に出てきて、セラフィマに戦争の話をインタビューさせてほしいと連絡が入る、ということになっている。そういうわけで、この本は最近流行りの百合もフェミニズムもいれているわけで、なかなか状況を逆手に取って流行りを入れているなあ、と感心した。(当然、最後の参考文献には「戦争は女の顔をしていない」が入ってました。)

お話自体はとても面白かった。

行ったこともない歴史上のソ連の様子を文献情報と想像力だけで描くのことには、まあ、小説家の基本技能のひとつかもしれませんが、やっぱり感心します。

訓練の様子、スターリングラード、クルクス、ケーニヒスベルクの攻防とか、狙撃兵が一般兵士に嫌われていて、さらにそれが女性だと嫌悪が倍加するとか、撃つ瞬間、心が無になる様子とか、まるで見てきたように状況が目に浮かびます。

少女同士の関係も、天才的な狙撃手アヤが初戦であっさり死んでしまうとか、仲間と思わせて実は監視していたオリガは憎まれ役だけど、最後に主人公を助けて死んでしまうとか、ありがちかな展開かも知れませんが、とても良くできています。

最初のイワノフスカヤ村で母親を狙撃したドイツ兵が天才的な狙撃手ハンス・イェーガーだと分かり、ケーニヒスベルクのラスト付近で対決します。このラスト部分、やりすぎと言っていいくらい衝撃的な展開がつぎつぎ待っているのですが、まあ、現代ではこのくらいの展開がなければだめなんでしょうね。もっと静かな展開のほうが現実感はあると思うのですが。

この辺はほとんど許容範囲なのですが、でもちょっと一箇所だけ違和感があるところがありました。

ケーニヒスベルクでハンス・イェーガーの行動パターンの情報を手に入れたセラフィマは、ひとり対決に行くのですが、実は狩ってるつもりで実は自分が狩られていると気がつきます。そこで彼女は、捕虜になる寸前にとっさにある行動を取ります。次の展開では、セラフィマは拷問にあっており、机に左手を釘で打たれています。でも、じつはセラフィマの取った行動というのが、自分の左手に麻酔を打つことだったので、この拷問は効いていないのです。

このシーンだけちょっとあり得ないなあ、と思いました。だって、左手に拷問が行われることをセラフィマは予期していたことになりますが、そんなの誰にも分かりようがないんじゃないですかねえ。拷問は他の部位にもいくらでもできますからねえ。麻酔薬を持っていることは、その前のシーンで自分を警備していた兵士を眠らせるのに使ったから、理解できるけど。

わしが良くないなあ、と思ったところはここだけで、その他の部分は全部良かったです。なぜかセラフィマは偉い人と直接会うというようなことができてしまうのですが(上級大将のジェーコフ、伝説の女性狙撃手リュドミラなど)、そのくらいは、まあいいです。

逢坂冬馬さんは、これからたくさんの小説を書いてくれそうですね。なんか小説を書くのが天性の人のような気がするので、長く続けてくれるでしょう。残念ながら、わしはほとんど読まないと思いますが、ぜひ頑張っていただきたいです。

(おまけ)

この本を読んだ後、気になって、ジャン=ジャック・アノー監督の映画「スターリングラード」を見た。実在の狙撃手バシリ・ザイツェフを主人公にしている。冒頭のスターリングラードの戦闘シーンは必見。よくこんなの撮れたなあ。

★★★★★

再び窓の世界へ



わしはあまりウィンドウズが好きではない。とはいっても、マックはもっと性に合わない。わしは垂直統合がそもそも嫌いなのだ。それならウィンドウズのほうがまだまし。そして、わしはCPUをぶん回すよりも、非力なCPUでサクサク動くことを喜ぶタイプなのだ。

そんなわしが数年前に3万円のChromebookを買った。このマシン、acer製だが、なんとCPUは格安スマホに使われているようなものだった。しかもタッチパネル機能付き。つまり、ざっくりキーボード付きアンドロイドタブレットのようなものだったのである。

しかしながら、大変サクサクよく動く。わしはすぐに気に入ってしまった。それにわしはグーグルの環境やアプリをがんがん使っているから、相性が悪いはずがない。この文章だってGoogleドキュメントで書いているのだ。

だが、買うときには気が付かなかったが、このマシン、OSは確かにChromeOSだったけど、OSのビット数を見て驚いた。なんと32ビットだったのである。

32ビット! いまどき32ビットOSのパソコンが存在しているなんて!

Chromebookは、ブラウザに当然Chromeブラウザを使う前提なのだが、OSが32ビットだから、Chromeブラウザももちろん32ビットバージョンなのである。時々、「これは最新のChromeではありません。アップデートしてください」と表示されるが、そもそも64ビットバージョンをインストールできないのだから無視するしかない。

しかしまあ、買った当初は、32ビットでも別に問題なかったのである。すべての作業は32ビットでも問題なくできた。

しかし、これがだんだん問題になってくるのである。

徐々に、64ビットじゃないと正常に動いてくれないサイトが出てきたのである。わしの場合、Chromebookの一番の使い道は、このサイトの維持管理である。ところが、ついに、32ビットのブラウザでは、「はてな」の管理画面に入れなくなった。これはとても困る。

はてな」に問い合わせたが、「そのOSには対応していません」と言われて、おしまいだった。まあ、そうでしょう。

それで仕方なく、ほぼ使われていなかったウィンドウズマシンを引っ張り出したが、なんとも使いにくいなあ、という感じである。仕事ではもちろんウィンドウズを使っていて、別になんの不満もないのだが、自分の個人的な作業をウィンドウズで行うと、とてもいらいらする。Chromebookのレスポンスの良さになれると、ウィンドウズはどこかワンテンポ遅く感じる。タッチパネルでないところもイライラする。

まあ、きっとそのうち慣れるんでしょうけど、64ビットのChromebookを買おうかなあ、という気もしている今日このごろなのでした。

ちなみに、頻繁に自動アップデートされるというのが特徴のChromebookですが、32ビット版はこの3年間、買った直後に一度アップデートがあっただけで、その後まったくありません。

グーグル、ぜんぜんケアしてないじゃん。しょうがないなあ。なんとか自動アップデートで64ビットにしてくれないかなあ。

日本はデジタル封建制を楽に乗り越えられると信じる理由

新しい封建制がやってくる」では、超富裕層と有識者のエリート階級とそれ以外のデジタル農奴との階級が固定化して、「デジタル封建制」とか「ハイテク中世(by堺屋太一)」の時代が来るという。自由と民主主義を愛する人たちにとってはとんでもない事態で、危機感を抱くのはとても理解できる。

だが、この本を読んで、これだったら日本は大丈夫なんじゃないか、というよりも日本こそ次の時代のライフスタイルをリードするんじゃないか、という気がしてきたのである。

なにより、この本の著者自身が、最後にこう言っているのである。

「日本は、たとえ経済の成長が止まっても、その代わりに精神的なものや生活の質の問題に関心を向けられる高所得国のモデルになると考える学者もいる。日本は将来世界を征服するようなことはないであろうが、高齢化が急速に進む一方で快適な暮らしが遅れる、アジアにおけるスイスのような存在になりうると考える専門家もいる。」

いや、まったく、そうじゃないんですかね。

では、わしが日本は大丈夫だと思う理由をあげていこう。

(1)江戸時代、江戸市民は楽しく暮らしていた

直近の日本の封建制といえば、江戸時代ということになる。

江戸市民の暮らしはどうだったのだろうか。これについては多くの記録が残されており、江戸のほとんどの市民は豊かでなかったかもしれないが、それなりに楽しく暮らしていた。このことには異論はないだろう。

江戸という都市は、市民は小さな住居に押し込められていて、自分の家を所有している人はあまりいなかった。しかも未婚率が非常に高く、生涯独身という人が多かった。つまり、コトキンが描く暗い未来ということになるのだけれど、別に江戸の市民が悲観的に暮らしていたということはまったくない。市民はそれぞれに楽しみを見つけて、日々暮らしていたのである。

毎日の生活も、今の現代人では考えられないくらいに、仕事の量が少なかった。日中の半分くらい働いて、午後の早くにはもう仕事をしていなかった。(もちろん業種によるけれど)。

(2)農民も楽しく暮らしていた

江戸は大都市だから市民は楽しく暮らせた、しかしその陰で大多数の農民は税金を搾り取られて、自由のない辛い生活を強いられていた、などと考えるかもしれない。だが、それは間違いである。

ときの為政者は侍だったが、基本的に農民に関しては放ったらかしだった。住民台帳すらとっていなかった。(台帳はあったが、農民自身が管理していた)。自分たちのことは自分でせよ、ということで、農村は庄屋を中心に自治を行っていた。そして農村は意外にも豊かだった。

農村が豊かだったのは税金が低かったからである。江戸時代の最初に村ごとに納める税金が決まると、江戸時代のあいだ、変わらなかった。一方で新田や高額換金商品がどんどん開拓されたので、実質的な税率は低く、10%以下というところもあった。

農民は働き通しというのも間違いである。多くの農村では働かない休みの期間を設けていた。年間30日〜60日の休みがあった。

移動の自由もあった。というか、勝手に移動していた。農民が村ごといなくなったという話がある。家族で何年かごとにあちこちに移動したという話もある。(たぶん侍たちは気が付かなかっただろう)。

では、こうした状況で農民は何をしていたのだろうか。

基本的には遊んでいたのである。

祭りやスポーツなどのイベントは盛りだくさんで、きっと地域のヒーロー、ヒロインはたくさんいたに違いない。芸事などに励む人も多かった。旅行も、お伊勢参りとか、いろいろやっている。

参考:貧農史観を見直す

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(3)日本人の基本思想はやり過ごすこと

欧米の哲学者は、自由とか平等とか、人間や社会の根本的な部分に思いを馳せるのかもしれないが、日本人はまずそんなことはしない。なぜなのだろうか。

ヨーロッパでは一番怖いのは人間自身、という発想になると思う。なにしろ、民族皆殺しの歴史が普通にあり、人が何10万人も死ぬという事件は人間が起こしている。アメリカでも人間が一番死んだのは南北戦争だろう。中国も何100万人も殺している。

このような状況では、人間とは何かについて考え、道徳や倫理、さらには政治体制を構築することでなんとかしようと考えるだろう。

でも日本で一番人が死ぬのは、人間が起こしたものではなく、地震などの災害である。地震とは人間にはどうしようもないことである。ここで人ができることは、なんとか厳しい状況をやり過ごすことだけである。

さらに、日本では政治的、社会的なひずみが溜まっている場合、地震などの災害を契機にガラッと変わってしまうことがある。人間が変えるのではなく、まるで自然の脅威が社会を変えていくように見えてしまう。安政の大地震関東大震災が日本の歴史を変えたと養老先生が言っているとおりである。

そうなると、社会が変わるのは、人間がなんとかするような問題ではないのである。自然現象のようなものである。自然現象の一部だとすると、それに対処する基本方針はやり過ごすことである。変える必要はない。無理に変えなくても、社会はどうせ自然に変わっていくものなのである。だからそれをやり過ごすことが大切だ。

だから日本人は社会を変えようとするのではなく、勝手に変わっていく社会に適応しようとする。日本で侮辱的な言葉は、「間違っている」ではない。「遅れている」「古い」である。社会の変化に適応できないことをなじる。

このようなわけであるから、日本では新しい封建制が起こってもスムーズに適応するだろう。

なお、同じ理由で、日本では天皇制も憲法も永遠に変わらない。変えるということは原理から考えるということを意味している。日本人はそんなことはしない。そんなことをしなくても、勝手に変わっていくからだ。形式的には変わっていなくても、運用が変わり、実質的に変わっていくが、それを不思議と思わない。

さらに同じ理由で、戦争も反省しない。戦争を起こしたことも敗戦も原爆も特別大きな災害の一種だと思っている。日本沈没みたいな? 原爆はゴジラという荒ぶる神ということで納得している。自分は被害者として認識していて加害者とは思っていない。

参考:日本の歪み

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(4)日本人は基本、享楽的

江戸時代の状況を読んでも、ほとんどの人は違和感を覚えないだろう。今の日本人、そのままだから(笑)。

今の日本人も、超富裕層かどうかに関係なく、自分のできる範囲で享楽的に生きていると思う。自分が生きている間、なんとかやり過ごして生きていければ幸せだ。

日本人はある程度の収入があれば、遊んで暮らせる人たちである。1億人がなにかにはまって生きていくならば、それは膨大な多様性が確保されているということである。そんな多様性があれば、世界に売っていくものは何かしらあるだろう。これからは日本は文化を売っていくのだから。

したがって、新しい封建制は日本人にとっては江戸時代に戻るだけのことで、それはそんなに悪いことではない。江戸時代に比べれば、まだ働きすぎのように思うので、ぜひもっと休みを取って遊んでもらいたい。お金がなければ、お金を使わない遊びをしてほしい。時間があればなんとかなる。

そして、政府にはベーシックインカム的な施策をどんどん進めて、遊ぶ不安を減らしてほしい。著者のコトキンは国家への依存を増やすことに反対のようだが、わしは別に構わないと思っている。すでに日本人は、健康保険と年金でどっぷり国家への依存を深めている。これをさらに進めてなにか問題があるのだろうか。何かあっても生きていけると思えれば、日本人の自殺も減るのではないか。

もう一度確認しよう。これからは日本人が遊ぶことそのものが日本の売りになる。日本はこれからは(これからも?)「文化」を売っていくのである。大いに遊ぼう。

(個人的にはもっとサイエンス、テクノロジーの分野で遊んでいただきたいです。科学こそが最高のエンタメだと信じています。国家支援、よろしくお願いいたします! そんなにたくさんでなくていいから、自由に使えるお金を研究者に配ってください)。

参考:中村元選集〈第3巻〉/東洋人の思惟方法〈3〉日本人の思惟方法

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新しい封建制がやってくる グローバル中流階級への警告

ジョエル・コトキン 訳・寺下滝郎 解説・中野剛志 東洋経済新報社 2023.11.14
読書日:2024.2.24

一握りの超富裕層が世界の富の大半を握り、グローバル社会のなかで中流層は没落してデジタル農奴となり、このような状態が世襲化して引き継がれる結果、社会的な流動性がなくなり、階級が固定化して、中世の封建制に似た世界がやってくると警告する本。

まあ、このような格差が広がって、しかもそれが世襲されて固定化するという話は今では珍しくないのだが、それを中世の封建制と比較しているところが新しい。

ヨーロッパでローマ帝国崩壊後に封建制が誕生した経緯は次のようなものだったそうだ。ローマ帝国が滅びると、治安も崩壊して、自営の農家が身を守るすべがなくなってしまう。そこで、農地を手放して有力な豪族の庇護下に入る。その結果、移動の自由を含むすべての自由がなくなり、農奴となり、ここに階級が固定化されてしまう。

現代でもまさに同じようなことが起きているというのだ。

と言われても、わしはだからどうした、という感じで読んでいた。しかし、このような未来は今のカリフォルニアですでに起きているといい、その様子を具体的に述べているのだが、それがけっこう戦慄すべき状況なのである。

かつて「黄金州」と呼ばれてチャンスの国であったカリフォルニアだが、いまでは格差が拡大して、その格差は全米で最悪にちかく、南米のグアテマラホンジュラスに似た状態だという。アメリカの生活保護世帯の3分の1がカリフォルニアにいるそうだ。そしてカリフォルニアの住民の3分の1が貧困ギリギリで毎月の請求書の支払いで精一杯であり、子供の45%が標準以下の住居に住んでいるという。ロサンゼルスは貧困率が全米の有力都市の中で最悪であり、衛生環境が悪化して、チフスなどの中世で流行った感染症が増えているのだという(まさか!)。

カリフォルニアの経済は拡大しているが、その経済発展はシリコンバレー周辺に極端に集中している。しかしIT企業の雇う人数は少なく、しかも市民権を持たない一時滞在者が40%を占める一方、一般市民は置き去りにされ、仕事があってもほぼ請負契約で働いていて収入は極端に少なく、トレーラーハウスに住み、30%が何らかの公的な支援なしには生活できない。シリコンバレーには全米で最大規模のホームレスの野営地がある。安くて良好な賃貸住宅はすでに崩壊している。

では、シリコンバレーで働いている技術職ならば大丈夫かと言うと、そうではない。グーグルは社員のために会社の近くに寮を建てているそうだ。そうすると、グーグルを馘首になると、とたんに住むところがなくなってしまうのだろう。彼/彼女は会社の奴隷となって働かなくてはいけなくなる。まさしく農奴である。高給をもらっていても、高い物価と税金のせいで、その生活レベルはかつての中流と変わらないという。いい生活をしているのは、テックオリガルヒと呼ばれるエリートだけである。

面白いと思ったのは、かつてのローマ帝国では、周辺の農地に奴隷を連れてきて働かせた結果、仕事を失った市民がローマ市内に入ってきて、30万人が帝国の提供するパンで生活していたそうだ。いわゆる「パンとサーカス」の政策なんだけど、当時のローマの人口は100万人程度と言われているから、30%に仕事がなく政府の公的支援が必要だった。この数値はいまのカリフォルニアの状況と近い。すると、今の状況はやはり新しい中世へ向かう一歩手前という状況なのだろうか。

中世では宗教が大きな役割を果たしていているが、現代でこの役割を果たしているのが、グリーンとかSDGsなどだという。中世の宗教では司教が贅沢をしながら貧乏人に来世を約束して現世を耐えるようにと主張するが、現代のグリーン教のひとたちは、プライベートジェットでダボスに駆けつけながら、自分たち以外の人達にエネルギーを使わないように主張する。しかし彼らはそれをなんとも思わないのだそうだ。なぜなら、炭素クレジットという贖宥状(しょくゆうじょう=免罪符)を購入することで、彼らは自分たちがグリーンに貢献していると主張できるからで、これは中世の金持ちと同じである。このような現代の聖職者と言えるのが、「有識者」と呼ばれる知識人たちだ。

このような未来は、SFの「すばらしい新世界」(ハクスリー)が参考になるという。エリートとそれ以外に分かれた世界だ。(やっぱり読まなきゃなあ、これ)。もちろん、現代では「有識者」のエリート層とそれ以外のデジタル農奴に分かれているんだそうだ。デジタル農奴たちは、わずかな公的支援ベーシックインカムなど)と引き換えに、デジタル情報を売り渡すデジタル農奴になるのだそうだ。

なるほど。言いたいことは分かる。

しかしわしの思うに、著者のコトキンは、経済的に自立しておらず、公的支援を受けるような人たちは、ローマ時代のパンとサーカスローマ市民と同じように、よろしくないという感覚が強すぎるような気がする。だが、わしは、個人的には今後の社会は、生きていくのに基本的な食料や住まいは無料に近づいていくと思っている。だから経済的な自立の程度はあまり気にしなくてもいいと思う。(そもそも有機体的な社会の中で、経済的自立って言ったって、完全な自立はありえないし)。

グーグルやマイクロソフトなどの巨大テックだって、全然永遠の存在じゃない。30年後に彼らがどれだけ力を持っているか、確信できる人はいないだろう。そしていくらエリートたちが富を集めても、100%以上は集められない。そしてもしそうなったら経済は破綻し、彼ら自身も貧乏になってしまう。だから、いくらなんでも富の集中には限度がある。

そしてなにより、彼らは国家の下にある。彼らの集めているお金は、国家の管理下にあるのだから、国家には逆らえない。中国で共産党にアリババもテンセントも逆らえないように。だから、富が集中していることよりも、権威主義国家ではなく民主主義国家であることのほうが重要だ。そして巨大テックにはきちんと税金を払わせることが大切だ。それができなければ、独占禁止法などで解体することだって国はできる。

わしは今後、世界人口は21世紀後半にピークに達したあと、減少すると思う。いま先進国や中国でおきていることは、その先駆けなのだ。もしかしたらピークの半分ぐらいになるかもしれない。その時代では、ふたたび人の価値が上がるだろう。中世のヨーロッパでペスト(黒死病)で人が減った結果、人の価値が上がったように。

そして、わしは日本人はこういった「デジタル封建制」というか、「ハイテク中世」というか、こういう世界と極めて相性が良いと思う。世界は、次の時代では、日本の経済ではなく、日本人の生き方自体に希望を見出す可能性があるんじゃないだろうか。

この本を読んで思ったのは、じつは危機感ではなくて、日本の時代が来る予感でした。

★★★★☆

なるようになる。 僕はこんなふうに生きてきた

養老孟司 聞き手・鵜飼哲夫 中央公論社 2023.11.25
読書日:2024.2.25

養老孟司が自分の過去を振り返った語り書きの自伝。

養老孟司って、わしにとっては「バカの壁」で突然出てきた人のように見えていたけど、なぜ東大の解剖学の先生がこんな感じで世の中に出てきたのかさっぱり分からなかった。でも本当に養老先生って、子供の頃からずっとこんな感じだったんだね。笑える。東大引退後の虫を採っている養老先生の姿をテレビで見て、母親が、「お前は子供の時からちっとも変わっていない、安心した」と言ってたのだそうだ。

子供の時と同じように、いまでも多くの時間を集めた昆虫の標本作りに費やしている。本が売れて、お金が入ったので、箱根の別荘でそれをやっているけど、きっとお金が入っていなくてもやっぱり自分の家で同じことをしていたんでしょうね。

虫については積極的だけど、それ以外はほぼ受動的で、自分から積極的に働きかけるという感じがあんまりない。キャリアについても、本当は昆虫学者になろうと思って、じつはハワイの研究所に就職もほぼ決まっていたんだけど、病気で倒れた母親が懇願したので、折れて医者になっている。父親が亡くなって母子家庭だったから、逆らえなかったらしい。そして医者になってみたら、臨床はあまりに責任重大で苦手だった。それに患者は良くなったら戻ってこないので、しつこく考える性質の先生は気になって、こういうところも合わなかったそうだ。

臨床が苦手だったけど、人間に興味があったので精神科へ行こうと思ったら、そのころは精神科の人気が高くてくじ引きで外れたんだそうだ。それで、人気のなかった解剖の方に行くことになった。けれど、死体は動かずにいくらでも調べることができるので、結果的に自分に合っていたのだそう。こんなふうにキャリアはまったく受動的に決まっていった。

いまでも、自分からしかけるということはなく、基本的に来た仕事はぜんぶ引き受けるんだそうだ。どうしてかと言うと、自分で仕事を選ぶということは自分で基準を作って選択するということだから、そんなことは面倒くさいから。なんとも受動的。

というわけで、きっと養老先生は、編集者にとって極めて使い勝手のいい媒体ということになるのだろう。どうも編集者が養老先生をうまく使ってベストセラーを作ってきたということらしい。

というわけで、ほんとうになるようになってきたのである。

とは言っても、文化人としての養老先生は、やっぱり読書の賜物のようだ。子供の時から本はずっと読み続けていて、いまでも暇があるとやっぱり本を開いてしまうんだそうだ。

そしてしつこく考えるところも、昔かららしい。数学のわからない問題があると、一週間ぐらい考え続けたらしい。一晩眠ると、忘れてしまうから、また最初から考えるのだそうだ。この、一度忘れてしまうというのが勉強にはよかったそうだ。もう一度ゼロから考えるということだから。こうやって、勉強らしい勉強はしていなかったのに、成績は1番だったそうだ。

でも、養老先生の知力はどちらかというと原理を考えるというよりも、博物学的なものだと思う。きっと昆虫採集の延長なのである。だから生物学や数学のようなものはいいけれど、物理学は苦手だったそうだ。これではいけないと、大学院に入ってから物理学の勉強をやり直したそうだ。

解剖学に入ったら、世間が死をないものにしようとする傾向があるのに疑問を感じて、日本人の歴史を振り返っている。そうやって、日本人は歴史的に、肉体的な時期と脳的な時期を繰り返しているということを発見する。これが文化人としての最初の成果なのかな。

また、夜は酒場に出かけていろんな専門家の話を聞いて勉強するようになる。こうして現代の解剖学の意義について考えたんだそうだ。この付き合いがのちのち役に立ったようだ。

文化人の養老先生はこんなふうに誕生したらしい。当時は100万円もするワープロも買って、自分で文章も書くようになった。ただし今では話したことを編集者がまとめるのがほとんどのようだ。この本もそう。

日本の歴史を振り返った成果としては、大災害のあとに大きく変化する傾向があることも発見したんだそうだ。日本が急速に軍事化に向かったのは、関東大震災が影響しているという。また明治維新も、1855年の安政の大地震が影響しているという。

こんなふうに災害で世の中が大きく変化するので、日本人は社会の激変も仕方がないと受け入れる素地があったと考えているようだ。敗戦も仕方がない、と、まるで災害のように考えているふしがあるという。

この本では、敗戦時の日本人の楽観的な様子をいまでも不思議だと言っているのだが、単なる災害と思っているから楽観的だったのだ、でいいんじゃないの? 歴史的な責任とか考え出すと面倒なことになるけど、災害史観では責任は問われない。

うーん。ともあれ、羨ましいくらい、悠々自適だなあ。

★★★★☆

恋ははかない、あるいは、プールの底のステーキ

川上弘美 講談社 2023.8.22
読書日:2024.2.4

アメリカからの帰国子女の作家、八色朝見が、アメリカ時代の友人たちとゆるく長い付き合いを続けながら、老境にいたる心境を綴ったもの。

小説としては、初・川上弘美である。エッセイは「私の好きな季語」というのを読んだことがある。「センセイの鞄」は小泉今日子の映画で見ただけである。で、小説家の川上弘美はよく知らなかったのでウィキペディアで調べてみると、なんともともとSF系の人で、現実と幻想が交じるタイプなんだそうだ。いまでは純文学はSFっぽくないといけないかのようだから、SF出身というのは、まあいいのかもしれない。あまりにSFやファンタジーの発想が純文学に浸透しすぎていて、ちょっとなんだかなあ、という気がしないでもないが。

この小説でも、2歳年上のアンという女性が、パラレルワールドに飛ぶという話が出てくる。気がつくと少しだけ違う世界に飛んでいるんだそうだ。これまでの人生で3度、飛んだそうだ。

SFって日本ではあんまり売れていないみたいだけど、今後はこうして純文学として生き残っていくのかしら? なんかちょっと嫌だなあ。だって純文学に出てくるSF的なものって、やっぱりSFじゃないんだよね、当然だけど。単にふしぎ風の感覚を醸し出しているだけみたいな。

子供時代のカリフォルニアの思い出から始まって、数ヶ月に1回会うか会わないかの還暦までの関係をゆるゆると書いて、お互いに深く踏み込むこともないし、結婚や離婚を経験して、というようなことが書いてあって、面白いか面白くないかというと、とても面白いんだけど(いや本当に)。でも、純文学はいいから、ちゃんとしたSFを書いてほしいなあ。

それにしても、わしは本当に文学にうとすぎるなあ(笑)。いや、まあ、SFですらそんなに読んでいないんですけどね。

★★★★☆

 

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